戦災建造物 東大和市指定文化財 旧日立航空機株式会社変電所
水曜日、日曜日に公開しています。
職員による展示解説を開始します
公開を行っている毎週日曜日に、職員による展示解説を行います。開始時刻は下記のとおりで、時間は各回45分程度です。どなたさまもお気軽にご参加ください。(予告なく中止する場合がございます。予めご了承ください。)
- 午前10時45分~午前11時30分(45分)
- 午後2時~午後2時45分(45分)
旧日立航空機株式会社変電所を一般公開しています
安全上の問題から立入りができなかった2階部分や内部の展示、弾痕の残る外壁を間近にご覧いただけます。ぜひ、お越しください。
- 公開日時 毎週水曜日・日曜日 午前10時30分~午後4時(年末年始を除く)
- 問合せ 郷土博物館 042-567-4800
- 入場料 無料
学校等の団体見学は、事前に郷土博物館までご連絡ください。
軍需工場の変電所
昭和13(1938)年、北多摩郡大和村(現在の東大和市)に軍用機のエンジンを製造する大きな軍需工場が建設されました。
東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、合併により「日立航空機株式会社」となる)立川工場です。工場は拡張を続けながら操業し、昭和19(1944)年には、従業員数13,000人を数えるほどの規模となります。
工場の北西部にある変電所は、高圧電線で送られてきた電気の電圧を下げて工場内へと送る重要な施設でした。
工場への空襲
太平洋戦争末期になると、軍需工場が集中していた多摩地域は、数多くの空襲を受けることとなります。この工場でも昭和20(1945)年の2月17日、4月19日、4月24日に受けた3回の攻撃で、工場の従業員や動員された学生、周辺の住民など100人を超える方が亡くなりました。4月24日の空襲では、工場は8割方壊滅したといわれています。
変電所も窓枠や扉などは爆風で吹き飛び、壁面には機銃掃射や爆弾の破片による無数のクレーター状の穴ができました。しかし鉄筋コンクリート製の建物本体は、致命的な損傷をうけなかったのです。
戦後も現役で活躍
戦争が終わると、工場はスレートや編み物機の製造など平和産業に転換し、自動車会社との合併や社名変更などを行いながら、平成5(1993)年まで操業を続けました。
その間、変電所は主要設備機器の更新をしながら、工場へ電気を送り続けていました。しかも、外壁に刻まれた生々しい爆撃の傷跡や内部の一部にも痕跡を残したままの状態で使われていたのです。
戦争を伝える文化財として
平成5(1993)年、変電所を含む工場の敷地は、都立公園として整備されることになり、変電施設としての役割を終えました。
しかし、地域住民や元従業員の方々の強い要望により、変電所の建物はそのままの場所で保存されることになりました。
戦争で多くの尊い命が犠牲になったことを、誰よりも雄弁に物語ってくれるこの変電所を、東大和市は平成7(1995)年10月1日に文化財に指定し、後世に伝えることにしたのです。
多数の弾痕が残る外壁は、当時の攻撃の凄まじさを教えてくれます。戦争の怖さや悲惨さ、そして平和の尊さを、この変電所をとおして感じていただければと思います。
関係資料を探しています
旧日立航空機株式会社変電所に関する資料(現物資料・写真等)を探しています。実態をより深く把握するうえで、さらなる資料が必要です。ご協力をお願いいたします。
- 旧日立航空機株式会社変電所に関する資料(旧日立航空機株式会社立川工場及び前身の東京瓦斯電気工業株式会社立川工場に関する資料も含みます。)
- 青年学校をはじめとした工場付属施設及び南街でのくらしなどに関する資料
- 学徒勤労動員の体験に関する資料
- その他、旧日立航空機に関する資料
ご提供いただける方がいらっしゃいましたら、東大和市立郷土博物館までご連絡ください。
交通
西武拝島線・多摩モノレール「玉川上水」駅より徒歩5分、都立東大和南公園内
売上金の一部が寄附される自動販売機の設置について
市内体育施設に、清涼飲料水自動販売機が設置されました。変電所の写真が目印です。
設置施設
- 東大和市ロンドみんなの体育館外 南側(桜が丘2-167-13)
- 東大和市ロンド桜が丘フィールド(桜が丘2-142-2)
市では、変電所保存のため、株式会社伊藤園と覚書を交わしました。
これにより、上記の自動販売機の売上金の一部が市に寄附されます。
関連情報
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このページに関するお問い合わせ
郷土博物館
〒207-0031 東京都東大和市奈良橋1-260-2
電話:042-567-4800 ファクス:042-567-4166
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