○文献にあらわれた狭山(さやま)
○肥前風土記
狭山郷/在二/南一/郡
同天皇行幸之時在二 此山行宮一 徘徊四望四方分明因日二 分明村一 /分明謂二/佐夜気悉一/今訛謂二 狭山郷一
狭山の郷郡の南にあり。同じき天皇行幸しし時、此の山の行宮に在して、徘徊り、四もを望みますに、四方分明かりき。因りて分明の村といひき。分明を佐夜気悉と謂ふ。今は訛りて狭山の郷と謂ふ。
<校注>
○狭山の郷―鳥栖市西南郡旭町附近か。
(日本古典文学大系2・風土記・岩波書店刊)
○将門記
興世王と源経基とが一族郎党をひきいてこもつた狭服山が、現在のどこにあるかについては、古来諸説紛々として一定しない。
将門記に「比企郡狭服山」とある所から、埼玉県比企郡松山のあたりであると主張する人があり、比企郡は誤写で、大里郡三ケ尻村少間山であるという人があり、北足立郡馬室村内の通称サブ山なる松林であるとの説があり、現在の村山貯水池附近の、東京都北多摩郡と埼玉県入間郡の境上にある狭山であると説く人がある。
最後の説は、大森金五郎氏の説であるが、作者は、これに賛成したい。前後の関係上、狭服山は武蔵の国府の所在地に近くなければならないが、ここは府中からわずか三里、事件の進行に最も自然な位置にあるからである。
(平将門<下巻>・海音寺潮五郎著・新潮社刊)
○枕草子
〔三八〕(前略)かみの池。狭山の池は、みくりといふ歌のをかしきがおぼゆるらん。(後略)
<校注>
○狭山―武蔵国北多摩郡狭山。古今六帖、六に「恋すてふ(一本武蔵なる)狭山の池の三稜草こそ引けば絶えすれ我やねたゆる」とある。
(日本古典文学大系19・枕草子 紫式部日記・岩波書店刊)
○大納言経信集
承暦二年内裏歌合に郭公
夕されにさやまの峯の郭公
ありすがほにもなきわたるかな
<校注>
>○さやま―「さ」は接頭語で、山の意。地名の佐山は滋賀県・京都府にあり、狭山は大阪府及び東京都北多摩郡と埼玉県入間郡との接する地辺にあるが、ここのはおそらく単に山の意。
(日本古典文学大系80・平安私家集・岩波書店刊)
○千載集
五月やみ狭山の峰にともす火は雲の絶間の星かとそみる
(藤原顕季卿)
○新古今和歌集
巻五 秋歌下 だいしらず
前中納言匡房
つまこふる鹿の立所を尋ぬればさ山がすそに秋風ぞ吹く
<校注>
○さ山―武蔵国に狭山の地がある。しかしここは、山の意。
(日本古典文学大系28・新古今和歌集・岩波書店刊)
○夫木集
淋しさに野べに立出でなかむれば狭山か裾にすゞむしの鳴く
(匡房)
○新編武蔵風土記稿巻之百二十
多磨郡之三十二山口領 ○箱根ケ崎村
山川狭山 西北の境にあり、山の高さ凡十間餘、爰より東の方山口領野口高木の辺まで続けり、旧く世にきこえし名所にて、もとより古歌も多けれど、河内国にもこの同名の所みえたり、詳なることは総説の条下に合せ見るべし、
筥ノ池 村の西に民居あり、それより一町余を隔てし池なり、古は四方十五町なりしが、いつしか埋れて芝地となり、今は東西十間許、南北八間許、狭山の麓にあれば、狭山の池とも云り、是も旧き世よりの名所にて、古歌にも多く爰のことを読たり、其一二を左にのす、【夫木集】仲實朝臣の歌、春ふかみさやまの池のねぬなはの、苦しけもなく鳴かはづかな、同書ト部兼昌の歌に、あやめ草さやまが池のながき根を、是もみくりのならひにぞひく、同書隆の歌に、みくりくるさやまが池の便にし、かけはひかれぬ青柳の糸、【六帖】、歌に、武蔵なるさやまの池のみくりなは、引はたえすや我と絶ぬる、同書秀能の歌に、跡分し狭山は雪に埋れて、池のみくりはくる人もなし、同書光俊の歌に、狭山なる池のみくりは根もみねと、うちはへひとのくるそまたるゝ、堯恵【北国紀行】に、武蔵野を分侍るに、野径のほとり名に聞えし狭山あり、朝の霜をふみ分けてゆくに、わづかなる山の裾にかたちばかりなる池あり、氷ゐし汀のかれ野ふみ分て、行はさやまか池のあさ風、(後略)
(/大日本/地誌大系/ 新編武蔵風土記稿第六巻・編輯者 蘆田伴人・雄山閣刊)
〔注〕 文中、旧漢字は新漢字に改めた。
○武蔵野夫人
電車が「狭山公園」といわれる終点でとまると、前方を五十尺ばかり高く海鼠色の堰堤が塞いでゐるのが見えた。堤の下は芝生の間に径をうねらせた現代風の公園で、処々矮少な松が育つてゐる。勉はそういう都市計画的な造園の中を、擽たいような気持で道子を導き、堰堤の尽きるところからジグザグの階段を上つた。
(昭和文学全集23・大岡昇平集・角川書店刊)