原始のひがしやまと

 "ひがしやまと"にはいつごろから人間が住みはじめたのでしょうか。昭和51年の早春、村山貯水池(通称多摩湖)内の水がぬかれたのを機に行われた多摩湖遺跡群の発掘調査で、約2万年前の石器が発見されました。このことから少なくともそのころ狭山丘陵には私たちの祖先のくらしがあったことがわかりました。
 当時は、氷河時代がそろそろ終りを告げ、気候が少しずつ温暖になりはじめるころでした。それでも年間の平均気温は今より8度以上低かったといわれています。
 今から1万2千年ぐらい前、縄文時代に入ると気候がおだやかになり、それにともない、食料となる動植物も豊かになってきました。また、土器や弓矢も発明されて、食料をとったり、調理する技術もいちじるしく進歩しました。
 "ひがしやまと"においても縄文時代になると人口が増えはじめ、約5千年前には頂点に達しました。これは市内で見つかった遺跡のなかで、特にこのころの土器や石器、住居のあとなどが数多く発見されることから想像できます。こうした人口の増加は、多摩地域はもちろん、北関東や西関東、中部地方などの山間部に共通した現象でした。野山を中心とした食料の採集がさかんだったためでしょうか。
 ところが、縄文時代の後半(約3500年前)になるとこの地方での人口が減りはじめます。反対に現在の茨城県や千葉県の海浜部を中心に人口が増えはじめました。この原因について、「気候が寒冷化し、山から平地へ生活の場を移したため」とか、「食料採集の場が山から海へと移った結果」とか、いろいろな説がありますが、結論は出ていません。
 "ひがしやまと"でも、縄文時代の最終末(約3000~2300年前)から弥生時代(約2300~1700年前)にかけての遺跡はまったく発見されていません。武蔵村山市などでは弥生時代の遺跡が確認されており、狭山丘陵での人々の生活がまったく途絶えてしまったわけではないとしても、これは確実に人口が減ったことをあらわしているのでしょう。

古代のひがしやまと

 古墳時代から奈良時代(3~8世紀)にかけても、"ひがしやまと"のなかで人々のくらしの痕跡を示すものはあまり見つかっていません。ところが、平安時代(8~12世紀)になると、ふたたび人口が増えはじめました。多摩湖の湖底やその周辺地域から、当時の家のあとが発見されています。また、この時代になると、かんがい技術も発達し、丘陵の谷を利用した「谷戸田( やとだ)」がつくられるようになりました。 

中世のひがしやまと

 鎌倉時代から江戸時代がはじまるまでの400年間は、"ひがしやまと"にとって「空白の時代」といえます。もちろん、人々のくらしは続けられていたのですが、その様子を裏づける資料が非常に乏しく、"板碑"と呼ばれる当時の信仰を示す文化財が残っている程度です。新田義貞の鎌倉攻めにまつわる伝承が市内にも残されていますが、当時の人々はこの動乱の世の中をどう見つめていたのでしょうか。

近世のひがしやまと

 江戸に幕府がひらかれると、"ひがしやまと"の様相も一変します。
 江戸城築城のため、現在の青梅市の成木から白土(石灰)を運ぶための青梅街道が村のそばをとおるようになり、江戸市中との交通が活発となりました。炭や薪を江戸に運ぶ馬が飼われたりもしました。また、尾張徳川家の御鷹場になるなど、幕政の影響を少なからず受けるようになりました。
 芋窪、蔵敷、高木、奈良橋、清水、宅部、後ヶ谷(宅部、後ヶ谷は明治時代に合併して狭山村となる)の各村の基礎が形成されたのもこのころからで、領地の複雑な変遷をくりかえしながら幕末をむかえました。当時の領地支配を示す古文書が旧家に残されています。 

近代のひがしやまと

 明治時代になるとたびたび行政区分の変更が行われました。まず、"ひがしやまと"は品川県と韮山県に分割され、その後の本格的な廃藩置県で神奈川県多摩郡の一部となり、多摩郡の4分割(北・南・西・東多摩郡)、連合戸長制度などを経て、明治26(1893)年に多摩3郡が東京府に編入されました(東多摩郡は明治11年編入済。明治29年南豊島郡と合併し、「豊多摩郡」となる)。
 当時の"ひがしやまと"は、6村の組合村制度と各村との二重行政に苦しみ、一方では自由民権運動がさかんに展開された時期でした。明治45(1912)年になるとこの村々にとって決定的なことが起こりました。近代的な上水道建設を計画していた東京市が、狭山丘陵に貯水池建設を決定したのです。
 大正時代に入ると、貯水池建設のため、谷あいの土地が次々と買収されていきました。丘陵を背景に続けられてきた村人たちの生活に変化があらわれてきたのです。
 こうしたなかで、大正8(1919)年に6村が合併し、大和村が誕生しました。「大和」の名はそれまでの村々が大きく和してやっていこうという願いをこめてつけられたものです。
 また、大正12(1923)年には郡制が廃止され、郡長などの官職も廃止になり、その後、北多摩郡、西多摩郡など旧郡名は、行政単位としてではなく、単なる地域の名称として使われるようになったのです。
 昭和2(1927)年に村山貯水池は完成しました。このころの"ひがしやまと"は純農村から、徐々に近代化の波を受ける都市近郊農村へと発展していったのです。
 近代化への大きなステップはこの後さらに2回ありました。
 1つは、「南街」の成立です。一面の畑だった丘陵の南の台地に、大きな工場とその関係者の住宅街がつくられたのが昭和13(1938)年のことでした。近代的な区画整理のもと、ひとつのまちとしての機能をもった南街は、大和村の一部というよりも、「となりに別のまちができた感じだ」と当時を知る人はいいます。
 戦闘機のエンジンなどをつくっていた工場は爆撃の対象となり、昭和20(1945)年には、数回にわたる空襲で壊滅的な被害を受け、何人もの犠牲者を出しました。 

現代のひがしやまと

 戦後、村にとってふたつめの大きな変化がありました。
 昭和29(1954)年に大和村から大和町になるころまでの人口は1万3千人前後で、大きな変化はありませんでした。ところが、昭和30年代から40年代にかけて都営住宅や団地が次々に建設されると、人口は急増を続け、昭和40年に3万人、東大和市となった昭和45年には4万5千人を突破し、現在では8万人を超える都心のベッドタウンとして成長しました。
 丘陵と平地の対照的な地形を有する東大和市は、貯水池を保全するための豊かな自然が残され、一方では都心の近郊住宅地として開発されてきました。緑の狭山丘陵は私たちの祖先にとってかけがえのない恵みを与えてくれました。そして、それは今でも私たちの心にうるおいを与え続けています。この貴重な財産を未来へと守り伝えていくことが私たちの務めではないでしょうか。

(「東やまとの文化財」から)