東大和市は、令和2年で市制50周年を迎えました。これを記念し、令和2年4月15日号から1年間、9月15日号、10月15日号を除く毎月15日号(全10回)の市報に連載記事を掲載しました。

第10回(最終回) 東やまと市報~市と市民の皆さんとを結ぶ情報の架け橋~(3月15日号掲載)

  市制50周年を記念し、令和2年4月15日号から連載を開始した「あっという間に50年」。最終回の今号では、市と市民の皆さんとを結ぶ情報の架け橋である「東やまと市報」について紹介します。
 東やまと市報は、市制施行日の昭和45年10月1日に発行してから、通算発行数が1000号を超え、市の歴史とともに歩んできました。
 この間、紙面サイズの変更や全面カラー化などのリニューアルを重ねてきました。その一方で、「市民記者レポート」と「あなたのまちから」は、40年以上変わらずに掲載を続けています。
 「市民記者レポート」は、公募による市民記者の方々が、市民目線で地域の話題や市政に関することなどを取材し、レポートしているものです。「あなたのまちから」は、身近なまちの話題を、広報担当が取材し、紹介す
るものです。過去には、「農家で豚の赤ちゃんが9頭生まれました」など、時代を感じる話題も多く取り上げてきました。
 これまでに発行した東やまと市報は、市政情報コーナー(市役所3階)や中央図書館で閲覧することができます。
 50年間歩んできた「東やまと市報」を通じて、まちの歴史を振り返ってみてはいかがでしょうか。
 本コラムを10回にわたりご愛読いただき、ありがとうございました。今後も市民の皆さんにとって身近な存在であり続けられるよう、魅力的で親しみやすい紙面作りに努めてまいります。
 

第9回 風土史を伝える地域のシンボル~モニュメント~(2月15日号掲載)

 市内全域に設置している27のモニュメント(美術工芸品)をご存じでしょうか。
 今号では、平成2年から平成8年にかけて設置したモニュメントをご紹介します。
 モニュメントは、芸術を用いて美しい都市景観を生み出すとともに、当時目標としていた将来都市像「うるおいとふれあいのあるまち」を具現化する取組として、市全体が「ひとつの美術館」となるよう配慮し、設置しました。現在では、そのユーモラスかつ独創的な造形美の数々は、各地域のシンボルとなっています。
 また、モニュメントの題材は、各地域に残る「民話、伝承、歴史、事物」としました。例として、若い男衆が力を競い合った様子を題材とした「力石(ちからいし)」(東大和市ロンドみんなの体育館に設置・写真右上)や、穀物の豊作を祈る行事で使われていた飾りを題材とした「あぼへぼ(粟穂、稗穂)」(水道緑地に設置・写真右下)などがあります。こうした題材は、風土史を伝えるとともに、ふるさととしての個性ある豊かな表情を見せてくれています。
 現在では、街の景観の一部に溶け込んでいるモニュメント。市では、これらを巡るモニュメントマップを作成し、都市計画課(市役所2階)で配布しています。
 現在のような情勢だからこそ、人と密になることを避けながら芸術に触れ、我が街の歴史や風土に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 

第8回 郷土博物館 プラネタリウム(1月15日号掲載)

 自然・歴史・民俗の面から郷土を紹介する施設として、平成6年4月に開館した市立郷土博物館。今号では、その中の設備「プラネタリウム」を紹介します。
 プラネタリウムは映像学習設備として設置され、現在では、一般観覧者が学ぶだけでなく、市立小中学校の児童・生徒たちの校外授業の場としても活用されています。
  開館当時の投影機は、ドームにスライド画像を投影する方式であったため、投影できる情報に限りがありました。その後、デジタル投影機を導入したことで、星空解説を職員が行うことにより、多摩湖の星空など、地域に根差した番組を制作することができるようになりました。また、動画映像を取り入れた番組の制作も可能となったことから、観覧者にとっては、視覚的により分かりやすいものとなりました。
 さらに、映像学習の重要性を鑑み、平成26年3月、都内で初設置となる投影機「メガスターⅡB」を導入したことにより、従来の1000倍以上の数の星の投影や限りなく本物に近い色や明るさの星を表現することができるようになりました。特に、一つ一つ微細な星の集まりで表現される「天の川」は圧巻です。
 近年、東日本大震災直後の星空を表現したドキュメンタリー番組や子どもたちに人気のアニメとコラボレーションした番組等も投影しています。
 プラネタリウムに投影される多彩な星空は、観覧者に大きな感動を与え、その心を無限の宇宙へと誘ってくれます。都内では、東大和市のみで楽しめる壮大な宇宙の神秘を体感してみてはいかがでしょうか。

 

▲郷土博物館プラネタリウム

 

第7回 市立狭山緑地~時代により変わった役割~(12月15日号掲載)

 

 市の北部に広がる市立狭山緑地は、総面積14・6ha、東京ドーム約3個分の広さを誇ります。今回は、市の自然のシンボルのひとつになっている市立狭山緑地を紹介します。
 狭山緑地を含む狭山丘陵一体は、かつて、薪などを採集する、「住民の生活と直接に深くかかわる場」でした。しかし、都市化の進展により、次第に人の手が入らなくなったことで、荒廃や、宅地化することなどが見受けられました。
  市は、この流れを是正し、自然を保全するとともに、「市民の心のやすらぎの場」として公開するため、地権者の方々から土地を借り受け、昭和60年に「市立狭山緑地」を開園しました。
  開園から35年が経った現在、市立狭山緑地は、保全・管理を行うボランティア団体等の協力もあり、豊かな林となっています。
 絶滅が心配される昆虫や植物も多数生息する園内には、植物を傷めないよう木のチップがまかれた遊歩道等の整備がされており、木漏れ日がやさしく降り注ぎます。春の桜や初夏のヤマユリ、秋の紅葉など、園内の木々や植物は、四季折々の表情をみせ、訪れる度に新しい発見があります。近年では、小学生の野外活動の場にもなっています。
 また、平成2年に、園内東側に整備したフィールドアスレチック場は、休日には多くの親子連れで賑わいます。
 「生活と深くかかわる場」から「憩いの場」や「教育・レクリエーションの場」に役割を変えた市立狭山緑地。市の原風景ともいえる場所を一度訪ねてみませんか。

 

▲開園当時の狭山緑地・東やまと市報(昭和60年4月1日号)より

 

第6回 玉川上水駅前広場(11月15日号掲載)

 

 多くの市民の皆さんが通勤、通学等で利用している玉川上水駅。今号では、その駅前広場について紹介します。
 玉川上水駅前広場周辺地域には、かつて米軍大和基地がありました。昭和48年、米軍大和基地が日本政府に返還され、跡地となった玉川上水駅前広場の光景はバスの乗降所等もなく、現在の玉川上水駅前広場と比べて更地のような状況でした。しかし、平成元年から、現在のような駅前広場が誕生していきます。
 平成元年1月15日号の市報においてお知らせした玉川上水駅前広場実施設計の概要では、米軍大和基地跡地の基盤整備事業の一環として、また玉川上水駅を市の西南の玄関にふさわしいものとするため、「バス・タクシーの乗降所等の設置」、「広場中央に玉川上水をイメージした流水設備を配置し、周辺に山桜、エゴノキを植え雑木林の雰囲気をつくり、市民のいこいの場、語らいの場とする」、「駅前広場は米軍大和基地跡地に作られることから、基地の中央入口にあった石碑の移設」などの内容を行うことを伝えています。駅前広場は、平成元年3月に整備工事が始まり、平成2年2月1日から使用が開始されました。工事開始から1年以内に使用開始にいたったことからも、事業の早期実現に向けて取り組んできたことがうかがえます。
 利用者の利便性を図るとともに“いこい”“ふれあう”ことのできる場として誕生した玉川上水駅前広場。今日も多くの市民に親しまれています。

 

整備工事前の玉川上水駅前広場予定地

▲整備工事前の玉川上水駅前広場予定地(平成元年1月15日号市報より)

 

第5回 教育環境の充実(8月15日号掲載)

 

 東大和市の子どもたちが、元気に通う小中学校。現在、市内には市立小学校が10校、市立中学校が5校の計15校あります。今回は、東大和市の子どもたちの成長を支えてきた、学校にまつわる出来事についてご紹介します。
 東大和市では、昭和20年代以降、南街地域を中心に人口が急増し、昭和30年代後半からは、団地の建設など都市化が進められていました。このような状況の中、教育施設を充実させることは最も急を要する課題でした。それを物語るように、昭和37年当時の市の学校数は3校でしたが、昭和38年~48年に8校、昭和49年~57年に4校を建設しています。これだけ迅速に対応できたのは、教育に対する社会の要求、市民の強い願いの表れといえるでしょう。
 また、子どもたちの発育を補うため、東大和市で学校給食が始まったのは昭和32年。コッペパン、牛乳などを希望者に販売する形でスタートしました。その後、全児童生徒への完全給食実施のため、昭和42年に学校給食センターが完成しました。この施設から初めて提供された給食のメニューは、パン、牛乳、すき焼き風煮だったそうです。
 近年では、電子黒板やパソコンの活用など、授業内容も変化する中、市でも、児童生徒一人1台の学習用タブレット端末を使用した教育の実現など、新しい学習環境への対応が進んでいます。
 時代とともに変化する教育課題に速やかに対応し、東大和市の子どもたちの健やかな成長を願う気持ちは、50年前と変わることなく、現在も引き継がれています。

 

学校の建設等を伝える当時の市報

▲学校の建設等を伝える当時の市報(昭和46年1月1日号より抜粋)

 

第4回 新青梅街道(7月15日号掲載)

 

 ガソリンスタンドやレストラン等が軒を並べる新青梅街道。東大和市の大動脈として、私たちの生活を支える幹線道路です。
 新青梅街道は、古くは江戸街道と呼ばれ、江戸への通路として機能していた街道でしたが、近くには人々の住む里はなく、日常生活からは遠い存在でした。
 大正時代以降、村山貯水池、山口貯水池建設に伴い移転を求められた人々が沿道付近に居を移したことで、生活道路として利用され始めました。しかしながら、道路周辺の風景は、一面の畑が続いていました。
 新青梅街道が現在のような道路になったのは、昭和44年頃。それ以前は砂利敷きの農道でしたが、車社会の発展とともに、都心と青梅を結ぶ交通動脈として整備が進められました。
 その結果、幅員18mの道路が開通しましたが、昭和44年7月1日発行の大和町報では、新青梅街道と芋窪街道の交差点に信号機が設置されたことにより、大和町内の信号機が5基になったことを報じています。現在の新青梅街道の姿からは想像がつきませんね。
 新青梅街道は、生活に欠かせない道路となり、今日も私たちの暮らしを支えています。

 

昭和45年5月にいちょう通りと新青梅街道の交差点から西側を撮影した写真

▲いちょう通りと新青梅街道の交差点から西側を撮影(昭和45年5月)

上の写真と同じ場所の現在の様子

▲上の写真と同じ場所の現在の様子

 

第3回 市の木・市の花(6月15日号掲載)

 

  緑や自然あふれる東大和市。皆さんは、東大和市の市の木・市の花をご存知ですか。
 市の木は、古くから武蔵野の農家で、防風林として親しまれてきたけやき。市の花は、4~6月にかけて赤や白などの艶やかな花を咲かせるつつじ。どちらも馴染み深い植物です。
 では、市の木・市の花はどのようにして決められたのか。その成り立ちを紐解いてみましょう。
 市の木・市の花は、昭和50年10月1日、市制5周年を記念して制定されました。制定にあたっては、「市に植生し、市民に親しまれているもので、これからの市の発展を象徴すること」を念頭に検討が進められ、市民の皆さんの考えを集約するべく、昭和48年3月、昭和49年6月、昭和50年4月と、計3回のアンケート調査を実施しました。
 その結果を踏まえて決定したのが、けやきとつつじです。決定の主な理由としては、けやきは市内で多く見られ、武蔵野の地域に最も適して育つこと、つつじは狭山丘陵に昔から自生し、市民に親しまれ、種類が豊富であることなどがあげられました。
 大木として空高くそびえるけやきは、市内の各所でその雄々しい姿を見せ、初夏の頃に見ごろを迎えるつつじは、昔と変わらず可憐な花を咲かせます。身近な自然に込められた市民の皆さんの想いを、大切にしていきたいですね。

 

市の木「けやき」の写真

▲市の木「けやき」

市の花「つつじ」の写真

▲市の花「つつじ」

 

第2回 東大和市駅~市の表玄関~(5月15日号掲載)

 

 通勤や通学で利用されている方も多い東大和市駅ですが、昭和25年の開業当時は、「青梅橋駅」という駅名だったことをご存じでしょうか。
 「青梅橋」は、野火止用水と青梅街道が交差する地点に架かっていた橋で、現在の東大和市駅東側の交差点付近にありました。野火止用水が暗渠となったことから、橋自体はなくなってしまいましたが、現在も交差点名にその名を残しています。
 「東大和市駅」への駅名変更は、市が長年にわたって西武鉄道に要請をしていたものです。当時の市報では、その要請理由として、二つを上げています。
 一つ目は、『「青梅」という駅名が多摩地域に複数存在し、行き先をまちがうなど、いろいろな不都合なことが起きている』こと。
 二つ目は、『一日平均乗車人員8707人(中略)それも利用の大部分は東大和市民と、名実ともに東大和市の表玄関となっている』ことです。
 ここからは、人口が増加し、発展しつつある東大和市への期待と誇りがうかがえます。
 駅名変更は昭和54年3月25日になされ、一年後には高架化工事も終了し、駅は現在の姿になります。
 以来、東大和市駅は市の名前を駅名に冠し、一日平均2万5000人を超える人が乗り降りする市の「表玄関」として、今日も活躍しています。

 

駅名変更前(「青梅橋駅」)の「東大和市駅」

▲駅名変更前(「青梅橋駅」)の「東大和市駅」・東やまと市報(昭和54年3月15日号)より

 

第1回 東大和市の誕生(4月15日号掲載)

 

◎10月1日は東大和市の誕生日
 昭和45年、東大和市は誕生しました。日本は高度経済成長期を迎え、社会が大きく変わった時代です。当時の「大和町」も、人口でみると、集合住宅などの建築が続いたこともあり、昭和38年に約2万6千人だったものが、昭和45年には約4万4千人になるほどでした。
 このような変化を受け、我がまちの住民福祉の向上と近代的な進展を願い、10月1日、市制が宣言され、東大和市が誕生しました。
◎市の名称の由来
 市制施行にあたり、新しい市の名称については、村の時代から使われてきた「大和」を残したいという声が一番多くありました。
 しかし、「大和」という名称は既に使用されていたことから、これまで親しまれてきた「大和」を残し、「東京の大和」の意から「東大和市」となりました。
 なお、他の名称の候補としては、「新大和市」、「多摩大和市」、「むさし(武蔵)大和市」、「北多摩市」、「北大和市」、「多摩湖市」などがありました。現在の市の名称に慣れ親しんでいる私たちからみると、何とも不思議な感じがします。
 「大和」は、住民相互が仲良く、「大きく和する」という思いが詰まった名前です。この思いは、今でも大切に受け継がれています。今後も守っていきたいですね。

 

市の誕生を伝える東やまと市報

▲市の誕生を伝える東やまと市報